12月9日(月)配信 くらかず眼科 院長 倉員敏明

愛媛大学医学部卒業後、九州大学や京都大学、豊岡病院などで豊富な経験を積み、眼科診療に20年以上携わる。地域医療の拠点となる眼科センターの立ち上げや、網膜硝子体・白内障手術を中心に地域医療に貢献。コロナ禍で閉院した眼科の建物を引き継ぎ「くらかず眼科」として再出発。
笠井:くらかず眼科は埼玉県のさいたま市にある眼科さんですが、ホームページを見て、普通の眼科さんというレベルじゃない、大きな眼科医院ですね。
倉員:そうですね、眼科の総合クリニックみたいですね。2017年に前の経営者の先生が先の時代を見据えてこういう病院を作ろうと、私も立ち上げの際にご一緒させていただいて、その頃からスタートしてます。
笠井:これまでの経歴を拝見しますと、愛媛大学医学部を卒業された後、九州大学で心臓外科を経験されて、そこから京都大学の眼科に進まれたんですね。心臓から目に、どういう物語があったんですか?
倉員:とにかく手術は好きであるということですね。でも心臓は大きな病院に属さないとできませんので、地域医療に関わっていくために、どの外科でもいいので、地域医療に関われるものはないだろうかっていうことで、一つは人が亡くならない、命に関わらなくて喜んでもらえるものを修行し直そうということで、眼科に変わりました。
笠井:地域医療を意識されてくらかず眼科を開院されたということですが、どんな思いがあるのでしょうか。

倉員:前の病院がコロナのこととかいろんなことで、うまく経営がいかなくて倒産しました。その時、患者さんのカルテを守ること、情報を失くさないことが一番大事じゃないかということで、病院を引き継いで、カルテを守ろうという気持ちで引き継がせていただいたのが一番の理由です。
笠井:潰れてしまった病院をそのまま同じ眼科として同じ場所で引き継ぐというのは、とても困難なことじゃないですか?
倉員:そうですね、いろんな方からまず無理だって言われました。僕はこれが40代だったら難しいなと思ったと思うんです。でも、ご理解いただけるかもしれませんが、60歳を過ぎて、仕事に専念できるということと、もう一つは、5年間は医療をやっていたので、患者さんからも信頼されていたと。医療が失敗したわけではなく、経営が失敗したのであって、医療は成功してたという感覚があったので、じゃあその患者さんを僕らも守らせてほしいと舵を切ることができたというか、判断できました。
笠井:病院が続くことを知った患者さん方の反応はいかがでしたか?
倉員:潰れてから毎日玄関の前に患者さんがきてくださって、ずっと見守ってくださっていて。もう潰れた病院なので宣伝は一切しませんでしたけど、開院の時に口伝で来ていただいた時は、本当にやってよかったっていう風に思いました。すごい皆さんのパワーが後押しになったと思いますし、いろんな人を動かしたと思います。
笠井:自分も大病をしたので、病院ってとっても大事なんですよね。それが続くということは、患者にとってはものすごい大事なことです。なぜ地域医療に気持ちがそんなにいっていらっしゃるのですか?
倉員:大学から兵庫県の北部に派遣されて、そこで地域医療に従事しました。逆に最初から地域医療を目指したわけではなく、地域の人に育てられたという思いがずっとあって。20年間、その地域でひたすら地域の人たちと医療に取り組んできて、それが自分の今の人間形成というか、医者としての形を作ってくれたと思います。だからその先生に誘われた時も、埼玉は実は都会なんだけど、比較的医療過疎なんだよということを言われて、埼玉に行ったというのがきっかけです。
笠井:仕事をしていて嬉しい瞬間はどんな時ですか?
倉員:当然重症な病気の患者さんが治ったりするのも嬉しいんですが、例えば患者さんとは、診察室の中では患者と医者の関係なんですけど、帰る時は必ず人間と人間の関係に戻して帰っていただこうと思ってるんです。おじいちゃんに「元気でね」とか声をかけるんですね。そうすると、100%みんな振り返って笑いながら「先生もね」って言ってくれるんですよ。で、そういう瞬間がやっぱり一番嬉しいです。
笠井:それって病院だけの話じゃないですね。仕事をする上でもすごく大事なことだなって気づかされました。冒頭で手術が好きだっていう話がありましたけども、技術といったものには結構自信があるように感じました。
倉員:自信があるというよりは、患者さんから、その病気からは逃げないっていう気持ちはあるので。それと、どんな苦しい状況になっても患者さんとコミュニケーションを取り続ける自信があるので、最後まで患者さんと向き合って、一緒に取り組んでいくということはできるかなと思います。

笠井:くらかず眼科の経営理念ってどんなものがあるんでしょう?
倉員:とにかく働く人にも優しく、みんなでどの方向に進んでいこうか、患者さんにどの方に進んでいってほしいのか、地域の医療が何を求めているのか、に応えれる経営をしっかりきちっとやっていく。経営の内容もできるだけ職員にオープンにして。経営者が勝手に進んでいくのではなくて、埼玉の患者さんにも優しいし、周りの開業医さんとも連携をとれて、なおかつ大学病院ともいい関係で、ハブになるような病院になっていきたい。そのために病院を安定させていく。新しい課題が出てきた時は、それにきちっと課題として取り組んでいけるような経済力を持ちたいと思っています。
笠井:ずいぶん前から、メーカーと一緒に手術の器具や手術方法を研究されていらっしゃるんですよね?
倉員:自分で自主的に研究を始めて、そこにメーカーの人たちが面白いなって、わざわざ兵庫の北部までいろんな人たちがやってきてくれて。おかげで、目の中に入れる人工レンズの研究とかをやらせていただいて。世界で初めて入れるレンズを入れさせていただいたりとか、開発に関わったりとか。
笠井:何歳ぐらいまでそういった手術って受けられるものなんですか?
倉員:最高齢は104歳ぐらい。遅れれば遅れるほど、効果は薄まってくるんですけど、例えて言うと、昔、余命1ヶ月の人の手術をしたことがあります。周りからはそんな人に手術するのかって言われたんですけども、「どうして手術を?」と聞くと、初孫が生まれるので、見て死にたいと言われたんですよ。そしたらやらざるを得ないですよね。その時、綺麗に孫の顔が見れたんで、思い残すことはないって言われたんです。それくらい、レンズによっていろんな人の人生を変えること、生活を変えることができるということにプライドを持って取り組んでいます。
笠井:本当に素晴らしい。ドラマを聞いているような感じがして。これからの未来のビジョンはどんなものがありますか?
倉員:たまたま埼玉でチャンスをいただいたので、周りの患者さんにも頼っていただけるようになりたいです。周りの開業医の先生も孤独だと思うんですね。先生たちが、とりあえずあそこに行けば何かしてくれるよっていうような病院にしたいと思います。また、大学病院も手いっぱいな時に、うまいハブになるような病院になって、地域の医療に貢献したいなと思いますし、信頼が得られる病院になりたいと思います。
